2009年2月 8日 (日)

中風と4人の友人 マルコ2:1~12

・中風と4人の友
 中風は現代でいうところの脳梗塞/脳出血のことです。昔は不治の病でした。「ひとりの中風の人」は身も心も魂も、すべての側面で思い苦しみの中にありました。その苦しみを知る4人の友人は病人に対する愛と共に、主イエスに対する熱心な信仰とを働かせます。彼らは家が人であふれかえっているので、屋根をあけて天上から病人をつり降ろします。破天荒ですが、主イエスは友らの熱心な信仰をよしとします。

・主イエスは罪を赦す権威を持つ
「子よ。あなたの罪は赦されました。」 
 主イエスは病人の根本的解決を「罪の赦し」という形でなされました。罪こそが悲惨と苦しみの根源です。また罪の赦しを基盤として、人間は全人的(whole man)に新しい生命を回復するのです。
 この後、主イエスは病人を立ち上がらせて、肉体の病気をも癒されます。それは罪の赦しが基盤としてあり、全人的救いが、その人にもたらされていることを示します。「人の子」とは主イエスのことですが、当時の人々の考えとは異なり、彼が到来した第1の目的は、罪の赦しだったのです。

・私たちも4人の友のように
 この物語は、私たちも4人の友のようにして、ひとりの魂の救いのために信仰を働かせることの大切さを示します。ひとりの人の魂は重く、また多くの側面の痛みがあります。複数の助け手があって初めて、主イエスの元に導かれるのです。その時、主イエスは「あなたの罪は赦された」と宣言し、その人に対して全人的な癒しの御業をなしてくださるのです。

2009年2月 1日 (日)

ライ病人のきよめ  マルコ1:40~45
・ライ病人の求め
 ライ病人は旧約律法では宗教的にも、社会的にも、汚れた者とされ、一般の人々との接触も禁じられていました。それゆえ彼らは、肉体の疾患とともに魂に苦痛を覚えていました。新改訳第3刷の「ツァラト」とはヘブル語で「ライ病(汚れ)」を意味します。
 「ひとりのらい病人」は、その苦痛にあって主イエスにきよめられることを願います。ひざまずいて「お心一つで、私はきよくしていただけます」とは、強い信仰です。イエスが神の子としての権威と力を持つ存在ということを信じています。

・「わたしの心だ」
 「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」」
 らい病人の求めは、イエスの心の琴線に触れ、「イエスのきよめる心(意志)」を引き出しました。手が触れたのは、明瞭にイエスの意思を表すためです。その心と言葉が接点となって、彼はきよめられ癒されたのです。

・ライ病人のきよめ
 しかしライ病人は、本当の「きよめ」を知らないまま、イエスの元から去ってゆきました。それは肉体ではなく魂のきよめ、罪からのきよめです。この方が人に永遠の生命と平安、そして喜んで神に仕える心を与えるのです。
 もとハンセン病患者の谷川秋夫さんはこの点を証ししています。病気が癒されたこと以上に、主イエスによって罪からきよめられ、神に仕えることができる幸いについてです。そして主イエスを知る毎日について次のように語ります。「確かに肉体的には辛いこと、苦しい事もありますが、なにか日々新たにされているという実感があります。」

2009年1月25日 (日)

祈りと福音宣教 マルコ1:35~39

・祈り
 主イエスは「朝早くまだ暗いうちに起きて・・・祈って」おられました。主イエスの姿は私たちの信仰生活の模範です。世の情報が意識に入ってくる前に、神の言葉と光に照らされることが大切です。そのようにして神の子としての心と魂が備えられます。これはいわゆるデボーションで、神の言葉に照らされるときであり、私たちの霊の糧であり呼吸となります。
 さらに、私たちはデボーション時に、罪を示されて、悔い改め、さらに心癒され、慰められ、力づけられ、神の道を歩むことが可能となります。

・福音宣教
 イエスが祈りに中で示されたことは「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。」ということでした。カペナウムでは、病人の癒しなどで忙殺されていました。それも大切な仕事でしたが、祈りを通して、第1の使命が何であるか明瞭にされたのです。福音こそが、人を罪から解き放ち、永遠の生命を与える唯一の手段であり、そのためには宣教が是非とも必要なのです。

・救われ生かされている意味
 私たちの場合にも、この点をいつも明確にしておく必要があります。私たちがキリスト者として生かされている意味は色々とありますが、その最たるものは私たちを通して福音が証しされることです。福音によってでなければ、誰一人として救われることがないのです。
 このことは、教会の使命を考える場合にも全く同じです。教会がこの地に建てられているのは、私たちが礼拝を守り、神の助けを受けるためだけではなく、私たちを通して福音が宣べ伝えられるためです。

2009年1月11日 (日)

ペテロの家で  マルコ1:29~
・ペテロの家で
 会堂を出てから、主イエスはペテロの家に入りました。時に、ペテロの姑は熱病にかかっていました。イエスは会堂だけではなく、普通の生活の中でも癒しの業をなさいました。
 私たちも教会だけではなく、普段の生活の中で主イエスの御業を祈り求めるべきです。

・癒しと奉仕
 「彼女は彼らをもてなした」とあります。姑は自分の癒しを通して、主イエスが神の権威を持つ方であることを知りました。それが心からの奉仕へと導いていきました。
 私たちの場合も、主イエスの御業を体験するごとに、主に仕えるという志を持つようになります。深い癒しを受けるほどに、心のこもった奉仕となるのです。

・私たちの経験から
 このことは、私たちがこれまでの信仰生活を振り返っても認めることです。確かに、私たちは聖書を理解して、そこに神の存在と主イエスが神であることを見いだして、信仰を持ちます。さらに、私たちの実生活での信仰体験がそれを深める契機となります。
 私自身も、熱が出たときに癒された経験、苦難の時に救い出されたという経験が、現在の働きと奉仕の基盤となっています。