2008年9月28日 (日)

召天者記念礼拝 「神の栄光が輝く時」 ヨハネ11章

・神が愛する人々
 召天された方々とご家族は皆、主イエスが愛しておられる方々です。ちょうどラザロとその姉妹を主イエスが愛していたようにです。ラザロについて聖書は、次のように語ります。「あなたが愛しておられる者」「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」
 神に愛されている者も病にかかり、さらに肉体の死を味わうことがありますが、その死という厳しい現実の中でも主イエスと父の神の愛は、変わることはありません。

・死者の復活と神の栄光
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」
 神に愛されている者の生命は死で終わるだけのものでありません。むしろ死という現実の中で、神の栄光として輝くのです。
 ラザロの場合は、彼が死んで4日がすぎていて墓に入れられていたのに、主イエスの声と共に復活しました。死者の復活において神の栄光が現され、主イエスにあって息を引き取った者たちは、永遠の生命の中にあることが明瞭にされました。

・神の栄光の輝き
 私たちの時代において、ラザロのような肉体の復活はありません。しかし主イエスにある死者はすでに永遠の生命の中にあります。私たちはその事実を信仰の目を持ってみることが大切です。信仰を持つ者が生命と希望を保ち、信仰を失う者は絶望という霊的死に陥ります。
 さて主イエスを礼拝する私たちが、信仰の目で召天者たちを思い起こす時、一人一人は優しい笑顔で、神の栄光の中に輝いている姿を見いだすのです。彼らは信仰によって永遠の生命と主イエスの恵みを明瞭に証ししているのです。

2008年9月21日 (日)

祝福を伝える 1ペテロ3:9、ヘブル11:20~21

・祝福を伝える
「かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです 」(1ペテロ3:9)とあります。  
 私たちは神によって祝福され、それを次の世代に伝えるために召されています。高齢者は、長い年月の間に、神の祝福を身をもって体験された方々で、それが如何に恵みに満ちてかを知り、またその祝福を次世代に伝えるように召されています。

・族長たちも祝福を伝えた
 「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し・・・礼拝しました 」ヘブル11:20~21
 アブラハム、イサク、ヤコブという族長たちは、私たちの信仰の父祖達です。彼らもまた、祝福を受け、それを若い世代に伝えた人々でした。彼らは高齢者として権威を持ち、神の祝福を存分に体現した人々でした。彼らの祝福の言葉には、力があったのです。若い世代は、跪きながら祝福を受け取りました。

・今の若い世代に祝福を伝える
 現代の若い世代は、色々な不安と恐れに直面しています。彼らは将来についての祝福を願っています。高齢の信仰者から、祝福の言葉を受けることで、彼らは希望を持ちます。
 ナウエンという神学者は、レンブラント作「放蕩息子の帰郷」という絵の中に高齢となった自らの使命を読みとっています。父は白髪で、腰が曲がり、半盲です。しかし跪く息子を肩を手は強く優しいのです。左手は強く励ますように、右手は母親のように柔らかで限りなく慰めに満ちた手です。その両手でもって息子を祝福しています。その祝福は無条件の祝福です。


2008年9月14日 (日)

教職について 1テモテ5:17~25

・教会の教職・・・長老/牧師の働き
 最初のエルサレム教会では使徒たちが「御言葉と祈り」のための専任者とされていました。やがて周辺に出来た諸教会は、それにならい長老(監督)を立てました。彼らは群れを指導する働きをしたり、御言葉を教える働きを担いました。福音自由教会では長老という名称はなく、その働きを担うのは牧師です。
 長老/牧師として立てられた者は「軽く見られないように」4:12自己鍛錬が必要です。同時に、教会もまた、御言葉のゆえの働き人として尊ばれなければなりません。そのようにして、神の家である教会は建て上げられます。

・教職に対する二重の尊敬とは?
 さらに「二重の尊敬」という表現には、十分な報酬という意味があります。次節に「働き手が報酬を受けることは当然である」とあるとおりです。使徒は、牧師が世において敬虔の形を保つために、ある程度の経済が大切なことを示しているのです。実際、あまりに牧師が貧しすぎる場合に、市民社会では躓きが起こる場合があります。教会が敬虔な群れとして社会に受け入れられるためには、その教職の生活スタイルも保たれる必要があるのです。

・教職の保護
 さらに、牧師は誤った非難から防御され保護される必要があります。教会の顔となる立場が、簡単に非難の対象になった場合、教会自体が不安定になり、その職務が妨げられます。「訴えは、ふたりか三人の証人がなければ受理してはいけません」とは、こうした配慮です。 また罪からも守られることが必要です。罪が明らかになった場合は、重いときには罷免されるべきです。こうしてして教会の聖さが保たれます。
 また牧師は健康の自己管理と共に、教会による配慮で心身の健康が保たれる必要があります。最近の社会を反映して、牧師も「燃え尽き症候群」、強度のストレスにサラされています。牧師の働きも、教会の理解と祈りの中で支えられ、その職務が全うされるのです。

2008年9月 7日 (日)

神の家族として 1テモテ5:1~17
・神の家族として・・・祝福を受ける
 キリストは、肉の家族を超えた、神の家族関係を創造されました。そこで教会の年長者は、父であり、母です。敬い、優しい心と言葉で、接するべきです。同年齢の人々は、兄弟姉妹の関係です。互いに、肉的下心をなくして、「真に混じりけのない心」で接します。
 また、当時の教会には「やもめ」制度があり、具体的な援助をして「母たち」を敬ったのです。現代の教会の場合も、必要な場合に、具体的な敬いと愛を行使すべきです。

・「1つになって」生命の祝福を受ける
 私たちは、このような交わり築くことによって、神の家族としての幸せを味わい、また神の祝福を受けます。詩篇133:1「なんというしあわせ」、3「主はそこにとこしえのいのちの祝福を命じられた」とあります。
 生来の家族は親しいとしても、血肉の交わりであり、そこに神の生命はありません。しかし神の子としての交わりには聖霊がすすがれて、永遠の生命が与えられます。

・「1つとなって」キリストと父の神を証する
 また家族として「1つとなる」ことは、キリストの贖いを証しします。十字架上で主イエスは「そこに、あなたの母がいます」(ヨハネ19:27)と弟子のヨハネに語りました。肉を裂くという代価で、キリストは私たちには新しい交わりを与えたのです。私たちが神の家族としての交わりを深めるときに、キリストの贖いの恵みを証することになります。
 また、私たちが「1つとなる」ことで世に対して神が私たちを愛して、私たちと共におられることを証しします。(ヨハネ17:23)
 一般の家庭で、子供たちが互いに仲良くできるのは、どの子供も親に愛されているからです。丁度そのように、私たちが神の家族として互いに愛して1つとなるときに、自ずと目に見えない神の愛と臨在を世に対して、証することになるのです。



2008年8月31日 (日)

敬虔の鍛錬 1テモテ4:6~16

・誤った敬虔
 「空想話」とは、荒唐無稽の奇跡、天使と悪霊の物語です。当時、霊的な物語と称して流布し、人々の心を捕らえていたのです。現代でも、スピリチャルということが求められていますが、私たちはそのような話しに、自分たちの敬虔さの印を求めてはなりません。

・敬虔の鍛錬は有益
 敬虔の鍛錬は、肉体の鍛錬以上の有益さを持ちます。敬虔の鍛錬とは福音の言葉に基づく、信仰姿勢の厳しい訓練を意味します。
 肉体の鍛錬ならば、地上の生命だけに有益なものです。ところが敬虔の鍛錬は、今の生命と未来の生命のために有益です。今の時においては、節制と平安を養って心身の健康に有益であり、誠実と愛の心は対人関係を良好にします。未来の生命とは、永遠の生命のことです。地上の人間は誰しも、地上の生涯を終えて天に向かうときが来るのですが、敬虔の鍛錬によって永遠の生命を保つなら、その時にも幸いなのです。

・敬虔の鍛錬の実際
 生来の私たちには、罪と傲慢という古い体質が潜んでいて、私たちの内に永遠の生命が育まれることを妨げます。しかし、私たちは敬虔の訓練によって、その性質を砕き、御言葉を心に刻んで新しい生命を宿すのです。
 あるいは御言葉と祈りを通して、キリストと十字架を知り、自分の十字架を負って従うことといってもいいと思います。御言葉と十字架の道こそ、生命の道であり、満ち足りた平安の道です。またある人は申しました。「十字架を負って歩いていると、いつの間にか十字架がわれわれを追って歩いてくれる」と。


2008年8月24日 (日)

感謝する敬虔 1テモテ4:1~5

・惑わす霊と悪霊の教えの害
 悪魔は様々な形で教会を攻撃します。その1つが「惑わす霊と悪霊の教え」です。主イエス御自身もパリサイ人とサドカイ人のパン種に気を付けるようにと警告されましたが、時代時代において、悪魔は様々な惑わす霊と教えを吹聴します。
 私たちは聖書に親しみ、聖書全体の教えを通して、真実な教えを見分けることが出来ます。

・誤った敬虔・・・禁欲主義
 「結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたり」と、悪霊の教えを指摘しています。当時、教会に入ろうとしていた異端はギリシャ思想の影響を受け、霊肉の二元論を説きました。それは霊はよく、肉体は悪という極端な教えです。そこで結婚を悪としたり、食物と食欲を悪として断つことを命じたのです。
 世の宗教は、禁欲によって、聖俗を区別します。そこである種の食物を禁じたり、結婚を汚れと見る場合があります。そして禁欲ということで、その宗教の聖の世界を形作ります。これらは誤った敬虔の形です。

・感謝する敬虔
 「神が造られた物はみな良い物」とは、聖書において示されている基本的世界観です。堕落は霊的に起こったもので、物自体は良いのです。それは神の子たちに対する神の愛の証です。また神の子たちのためが感謝して受けるように創造されたのです。「感謝」して食べる、生活を営むということすべては、神の愛に対する応答です。ここに地上における神の子(信仰者)たちの敬虔の姿があります。また深く感謝する心は、「捨てるべき物は何一つありません」という態度を造ります。
 
・感謝から始まる恵みの世界
 地上の神の子たちの生活は、感謝する敬虔から始まります。丁度、主イエスが荒野において五千人以上の人々を養う際に、感謝して祈りながら、パンを割き、魚を分けたように、私たちも与えられた物を心より感謝して受け取り、また分け与える中で、神の恵みの世界が私たちの内にも展開するのだと信じるのです。


2008年8月10日 (日)

教会は真理の柱また土台 1テモテ3:14~16

・神の家である教会
 「神の家とは生ける神の教会」とあります。神は目に見えない主人ですが、教会という神の家を通して、存在を明らかにし、世において働きます。当時の家とは、現代の家族と企業を合体した存在で、政治社会から経済活動のあらゆる分野で、存在感を持っていました。カイザルの家、ナルキソの家等、様々な大きな家が存在しました。その中で、教会は神の家として、神を礼拝し、神の共同体を形成し、神の事業を進めます。

・その教会は真理の柱また土台
 「その教会は、真理の柱また土台」とあります。真理とは第1にキリストとみ言葉です。第2には、それが具現化された見える真理として教会をさします。教会は、世にあって見える真理、存在する真理、働く真理として機能します。
 世には今も昔も虚偽に満ち、真理はありません。その危うい世にあって、教会は真理を保ち、世が崩壊しないように真理の柱また土台とて保つのです。

・教会は敬虔の奥義の現れ
 「敬虔の奥義」とは、霊なるキリストが肉体を取って地上に現れ、その義なる姿が、御使いと全世界に明らかにされて輝かされ、そして勝利して天に凱旋するということです。
 教会は、キリストを信じて受け入れた者たちの群れです。教会のメンバーも肉体を持ちますが、個々人としても、また教会という集団においても、キリストを具体的な形で現し、世において御業をなしていくのです。

・揺れ動く時代において
 私たちの社会は、いよいよ真理を失う時代に突入しています。偶像礼拝と偽装が満ちており、国さえも全面的な信頼など、出来ないのです。そこで多くの人々は、心の拠り所を探しているのです。
 私たちは教会の使命をよく理解し、真理の柱また土台とし、あるいはキリストの栄光の具体的輝きとして、自分たちを整えていきましょう。


2008年8月 3日 (日)

世に立つ教会 1テモテ3:1~13

・教会の自由と秩序
 教会は互いに、自由と平等を持つ神の子たちの群れです。「師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリスト・・・」「奴隷と自由人というような区別はありません」とあるとおりです。
 しかし、教会が世に立つ時に、組織という形を取らざるを得ません。「教会はキリストの体」というときに、それは生命を持ち、しかも組織を持つ存在ということになります。実際に、世に存在する集団はすべて、何らかの組織化がなされます。そして、教会は組織作りという点でも、世の集団に対して差別化をなし、キリストを証しします。

・監督と執事
  監督とは、現在の教会では牧師が、それに近い立場にあります。監督は教会において責任ある立場にあり、群れを養い、監督する役割を持ちます。このような立場になることをキリスト者は躊躇することなく、「すばらしい仕事」として求めるべきです。ある牧師は「男子たるものの本懐(最高の願い)」と語っています。
 監督の資質は、「非難される所がなく・・・自分を制し・・・金銭に無欲で・・・自分の家庭をよく治め・・・教会外の人々にも評判の良い人」とあります。厳しい基準です。監督は教会の内外において教会の顔となり、教会の品性を決定づけることになるからです。
 執事は、監督を補佐して、教会運営を担当するやはり責任ある立場です。執事もまた、教会の資質を決定する働きですから、厳しい基準で審査され、選出されます。

・世に立つ教会
 人間は、何らかの集団や組織を作って、社会的に存在を現し、機能します。クリスチャンは、教会という生ける組織を作り、その教会をふさわしく整えて、世において存在を現し、証しをなすのです。
 昨今の諸々の組織、集団の堕落は目に余るものがありますが、このような時代、教会がキリストの体として、世において建てられ、しっかりと立つということは、実に、重要なことです。


2008年7月27日 (日)

敬虔の形  1テモテ2:8~15

・敬虔の形・・・男
 神は、私たちに対して信仰心を与えてくださったばかりではなく、それを具体的な敬虔の形として示すことを望んでおられます。それは教会生活と共に家庭生活、社会生活においても同様です。
 男性の敬虔の形は、祈りです。無信仰と異教的社会でも「男は男らしく」ということで、感情を爆発させて怒ったり、力で争うことも辞さない誤った文化を持ちます。そこからは不和と亀裂と対立のみが生じ、ますますエスカレートします。
 キリスト者は、そのような文化において「どこででもきよい手を上げて祈る」という形で、具体的敬虔の形を提供します。意見や立場の違いは、どこにもあります。それを祈りという形で収拾するのです。祈りは、神を畏れ、神の恵みにゆだねる、基本姿勢です。

・敬虔の形・・・女
 女性の、敬虔の形は良い行いです。世において、色々なファッションがもてはやされますが、神の御前で、また人の目に美しいと見られるのは、良い行いです。具体的には、静かに聞き、御教えに従う従順なる行いが、良い行いを意味します。
 女性は、教えることよりも従うことが勧められる理由は、エバの堕落の例があるからです。女性は、良い教えに対して男性以上に素早い反応をします。反面、惑わされやすい弱さを持ちます。それゆえ、真理の福音が述べられている教会では、女性は従う心を持って、その賜物を発揮するのです。

・不遜で傲慢な時代に求められる敬虔の形
 この時代、人々は、際限なく空しいファッション、名誉、お金を求めて自己実現を図ろうとしますが、その結果は破綻です。また、神に対する恐れがなく、不遜で、傲慢な時代です。この精神性から、私たちの回りでは、様々な事件や不和が頻発しています。
 このような時代、私たちの内に与えられた敬虔を明瞭な形にして、教会において、家庭において、社会において実践しましょう。参照:創世記24:63~65
 

2008年7月20日 (日)

すべての人のため祈る  1テモテ2:1~7

・すべての人のため祈る
 私たちキリスト者は、自分たちの救いを保つだけではなく、社会のすべて人々のために祈るように勧められています。祈りにより、社会に霊的支配を及ぼすのです。
 「また王とすべての高い地位にある人たちのために」とあるのは、政治家や首長たちのことです。政治は、不正や異教的影響が大きく腐敗している場合が多いものです。祈りは、神の力によって、それをただす力です。

・私たちが平和な一生を過ごすため
 祈りは社会を変革して、私たちはキリスト者として「敬虔に・・・威厳(品位)をもって、平安で静かな一生を過ごす」ことを可能にします。
 迫害の時代、堕落した時代は、キリスト教信仰にとって危機的で、誘惑が多いのです。しかし、祈りによって、霊的にいくらかでも変革された社会では、敬虔で信仰者として平安で祝福された日々を送ることが出来るのです。

・救われ、真理を知るため
 「救われて、真理を知るようになること」とあります。キリストを信じて、救われることは、即、真理を知ることです。キリストこそが、神が世に示された唯一の真理です。その真理によって、個人が救われるだけではなく、社会の礎が保たれることになります。
 世は、罪ゆえに、どんどん真理から離れ、無秩序となり、生命が軽んじられ、愛が冷たくなっています。しかし、ひとりでも多くの人々がキリストに出会うことにより、世に、社会に、真理が回復されるのです。
 私たちの日本の社会は、まさに真理を失っている時代です。この時にこそ、私たちの祈り、すべての人が、上に立つ者たちが、改心して救われ、真理に基づいた生命を生きることを求めるべきです。


«キリストは罪人を救う