祝福を伝える 1ペテロ3:9、ヘブル11:20~21
・祝福を伝える
「かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです 」(1ペテロ3:9)とあります。
私たちは神によって祝福され、それを次の世代に伝えるために召されています。高齢者は、長い年月の間に、神の祝福を身をもって体験された方々で、それが如何に恵みに満ちてかを知り、またその祝福を次世代に伝えるように召されています。
・族長たちも祝福を伝えた
「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し・・・礼拝しました 」ヘブル11:20~21
アブラハム、イサク、ヤコブという族長たちは、私たちの信仰の父祖達です。彼らもまた、祝福を受け、それを若い世代に伝えた人々でした。彼らは高齢者として権威を持ち、神の祝福を存分に体現した人々でした。彼らの祝福の言葉には、力があったのです。若い世代は、跪きながら祝福を受け取りました。
・今の若い世代に祝福を伝える
現代の若い世代は、色々な不安と恐れに直面しています。彼らは将来についての祝福を願っています。高齢の信仰者から、祝福の言葉を受けることで、彼らは希望を持ちます。
ナウエンという神学者は、レンブラント作「放蕩息子の帰郷」という絵の中に高齢となった自らの使命を読みとっています。父は白髪で、腰が曲がり、半盲です。しかし跪く息子を肩を手は強く優しいのです。左手は強く励ますように、右手は母親のように柔らかで限りなく慰めに満ちた手です。その両手でもって息子を祝福しています。その祝福は無条件の祝福です。
神の家族として 1テモテ5:1~17
・神の家族として・・・祝福を受ける
キリストは、肉の家族を超えた、神の家族関係を創造されました。そこで教会の年長者は、父であり、母です。敬い、優しい心と言葉で、接するべきです。同年齢の人々は、兄弟姉妹の関係です。互いに、肉的下心をなくして、「真に混じりけのない心」で接します。
また、当時の教会には「やもめ」制度があり、具体的な援助をして「母たち」を敬ったのです。現代の教会の場合も、必要な場合に、具体的な敬いと愛を行使すべきです。
・「1つになって」生命の祝福を受ける
私たちは、このような交わり築くことによって、神の家族としての幸せを味わい、また神の祝福を受けます。詩篇133:1「なんというしあわせ」、3「主はそこにとこしえのいのちの祝福を命じられた」とあります。
生来の家族は親しいとしても、血肉の交わりであり、そこに神の生命はありません。しかし神の子としての交わりには聖霊がすすがれて、永遠の生命が与えられます。
・「1つとなって」キリストと父の神を証する
また家族として「1つとなる」ことは、キリストの贖いを証しします。十字架上で主イエスは「そこに、あなたの母がいます」(ヨハネ19:27)と弟子のヨハネに語りました。肉を裂くという代価で、キリストは私たちには新しい交わりを与えたのです。私たちが神の家族としての交わりを深めるときに、キリストの贖いの恵みを証することになります。
また、私たちが「1つとなる」ことで世に対して神が私たちを愛して、私たちと共におられることを証しします。(ヨハネ17:23)
一般の家庭で、子供たちが互いに仲良くできるのは、どの子供も親に愛されているからです。丁度そのように、私たちが神の家族として互いに愛して1つとなるときに、自ずと目に見えない神の愛と臨在を世に対して、証することになるのです。
敬虔の鍛錬 1テモテ4:6~16
・誤った敬虔
「空想話」とは、荒唐無稽の奇跡、天使と悪霊の物語です。当時、霊的な物語と称して流布し、人々の心を捕らえていたのです。現代でも、スピリチャルということが求められていますが、私たちはそのような話しに、自分たちの敬虔さの印を求めてはなりません。
・敬虔の鍛錬は有益
敬虔の鍛錬は、肉体の鍛錬以上の有益さを持ちます。敬虔の鍛錬とは福音の言葉に基づく、信仰姿勢の厳しい訓練を意味します。
肉体の鍛錬ならば、地上の生命だけに有益なものです。ところが敬虔の鍛錬は、今の生命と未来の生命のために有益です。今の時においては、節制と平安を養って心身の健康に有益であり、誠実と愛の心は対人関係を良好にします。未来の生命とは、永遠の生命のことです。地上の人間は誰しも、地上の生涯を終えて天に向かうときが来るのですが、敬虔の鍛錬によって永遠の生命を保つなら、その時にも幸いなのです。
・敬虔の鍛錬の実際
生来の私たちには、罪と傲慢という古い体質が潜んでいて、私たちの内に永遠の生命が育まれることを妨げます。しかし、私たちは敬虔の訓練によって、その性質を砕き、御言葉を心に刻んで新しい生命を宿すのです。
あるいは御言葉と祈りを通して、キリストと十字架を知り、自分の十字架を負って従うことといってもいいと思います。御言葉と十字架の道こそ、生命の道であり、満ち足りた平安の道です。またある人は申しました。「十字架を負って歩いていると、いつの間にか十字架がわれわれを追って歩いてくれる」と。
世に立つ教会 1テモテ3:1~13
・教会の自由と秩序
教会は互いに、自由と平等を持つ神の子たちの群れです。「師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリスト・・・」「奴隷と自由人というような区別はありません」とあるとおりです。
しかし、教会が世に立つ時に、組織という形を取らざるを得ません。「教会はキリストの体」というときに、それは生命を持ち、しかも組織を持つ存在ということになります。実際に、世に存在する集団はすべて、何らかの組織化がなされます。そして、教会は組織作りという点でも、世の集団に対して差別化をなし、キリストを証しします。
・監督と執事
監督とは、現在の教会では牧師が、それに近い立場にあります。監督は教会において責任ある立場にあり、群れを養い、監督する役割を持ちます。このような立場になることをキリスト者は躊躇することなく、「すばらしい仕事」として求めるべきです。ある牧師は「男子たるものの本懐(最高の願い)」と語っています。
監督の資質は、「非難される所がなく・・・自分を制し・・・金銭に無欲で・・・自分の家庭をよく治め・・・教会外の人々にも評判の良い人」とあります。厳しい基準です。監督は教会の内外において教会の顔となり、教会の品性を決定づけることになるからです。
執事は、監督を補佐して、教会運営を担当するやはり責任ある立場です。執事もまた、教会の資質を決定する働きですから、厳しい基準で審査され、選出されます。
・世に立つ教会
人間は、何らかの集団や組織を作って、社会的に存在を現し、機能します。クリスチャンは、教会という生ける組織を作り、その教会をふさわしく整えて、世において存在を現し、証しをなすのです。
昨今の諸々の組織、集団の堕落は目に余るものがありますが、このような時代、教会がキリストの体として、世において建てられ、しっかりと立つということは、実に、重要なことです。
すべての人のため祈る 1テモテ2:1~7
・すべての人のため祈る
私たちキリスト者は、自分たちの救いを保つだけではなく、社会のすべて人々のために祈るように勧められています。祈りにより、社会に霊的支配を及ぼすのです。
「また王とすべての高い地位にある人たちのために」とあるのは、政治家や首長たちのことです。政治は、不正や異教的影響が大きく腐敗している場合が多いものです。祈りは、神の力によって、それをただす力です。
・私たちが平和な一生を過ごすため
祈りは社会を変革して、私たちはキリスト者として「敬虔に・・・威厳(品位)をもって、平安で静かな一生を過ごす」ことを可能にします。
迫害の時代、堕落した時代は、キリスト教信仰にとって危機的で、誘惑が多いのです。しかし、祈りによって、霊的にいくらかでも変革された社会では、敬虔で信仰者として平安で祝福された日々を送ることが出来るのです。
・救われ、真理を知るため
「救われて、真理を知るようになること」とあります。キリストを信じて、救われることは、即、真理を知ることです。キリストこそが、神が世に示された唯一の真理です。その真理によって、個人が救われるだけではなく、社会の礎が保たれることになります。
世は、罪ゆえに、どんどん真理から離れ、無秩序となり、生命が軽んじられ、愛が冷たくなっています。しかし、ひとりでも多くの人々がキリストに出会うことにより、世に、社会に、真理が回復されるのです。
私たちの日本の社会は、まさに真理を失っている時代です。この時にこそ、私たちの祈り、すべての人が、上に立つ者たちが、改心して救われ、真理に基づいた生命を生きることを求めるべきです。